「加害者を叩く動画」を見て思ったこと
最近、YouTubeで「旭川いじめ事件の加害者を晒す動画」がまた投稿されているのを見かけました。
コメント欄には「許せない」「こいつらを地獄に落とせ」などの言葉が並び、拍手するように賛同する人も多く見られます。
でも、それを見て正直、こう思いました。
「この人たちも、いじめをしているのと同じなんじゃないか?」
なぜなら、「悪を叩く」という形をとっていても、結局は“集団で一人を責め立てる”という点で本質は同じだからです。
「正義」を名乗る人たちの勘違い
自分がその動画にコメントでこう書いたことがあります。
「動画投稿者もコメント欄で一緒に叩いている人たちも、結局は集団でいじめをしているという点で同じです。
被害者遺族が事件を風化させないために声を上げるのは理解できますが、叩いている人たちは事件とは何の関係もない第三者です。
“正義”を盾にして日頃のストレスを晴らしているようにしか見えません。」
すると、こんな返信が来ました。
「この事件は教員や教育委員会の隠蔽を世に出したのは、世論が本気で怒ったからだ。
もし第三者が憤らなければ裁判も起こせなかった。」
確かに、社会の声が事件の真相を明るみに出したのは事実です。
でも、それと「個人を叩くこと」はまったく別の話です。
「怒ること」と「叩くこと」は違います。
誰かを晒して叩くことで、事件の根本的な問題――学校の体質、PTAや教育委員会の隠蔽体質――が解決するわけではありません。
大前提としてここを理解していない人がとても多いように感じます。
いじめがなくならない本当の理由
多くの人が「いじめをなくすには、加害者を厳しく罰するしかない」と考えます。
でも実際には、「いじめは“なくならないもの”だという前提で考えないと、何も変わりません。」
いじめは人間の集団の中で起こる「排除の本能」から生まれるものです。
それをゼロにすることは難しい。
だからこそ、「起きたときにどう守るか」「どう支えるか」を考えることが大事なのです。
なのに、SNSで「叩け叩け」と騒げば騒ぐほど、学校やPTAは「また炎上される」と恐れて、
ますます隠蔽する方向に動いてしまいます。
つまり、怒りのエネルギーが逆効果になっているのです。
「正義のいじめ」が生まれている
いまのネット社会では、「正義の名を借りた新しいいじめ」が広がっています。
たとえば――
- SNSで“悪者”を見つけて攻撃する
- 加害者の名前や写真を探して拡散する
- 「正しいことをしている」と信じて叩き続ける
こうした行為は、本人たちには“悪気がない”ことが多い。
むしろ「自分は社会のために行動している」と思っている。
でも、これこそが現代のいじめの新しい形なんです。
本当の「正義」とは何か
本当の正義とは、「誰かを叩くこと」ではなく、
「同じことを繰り返させないように仕組みを変えること」です。
旭川の事件を二度と起こさないためには――
- 学校や教師が逃げずに話を聞ける仕組みをつくる
- 生徒が安心して相談できる環境を整える
- いじめを見たときに「見て見ぬふりをしない」勇気を持つ
こうした地道な取り組みが必要です。
怒りをぶつけるより、未来に向けて行動することが本当の正義なんです。
最後に
「加害者叩き」に夢中になる人は、自分がいじめをしていることに気づいていません。
そして、それこそが「いじめがなくならない理由」そのものです。
いじめをなくすことはできなくても、
「誰かを追い詰める側に回らない」ことは、今の自分にもできる。
正義を名乗る前に、まずは「自分もまた誰かを傷つけていないか」――
そう自問することが、本当の意味でいじめを止める第一歩なのです。